不定期連載 コラム
第一回

オッファー・バーヨセフ教授(1937~2020)
を偲んで

山田しょう

オッファー・バーヨセフ教授
Ofer Bar-Yosef先生
2018年6月6日 UISPPパリ大会にて

 1年前の2020年3月14日、世界の石器時代の研究に大きな足跡を遺し、ハーヴァード大学人類学科のOfer Bar-Yosef名誉教授が故国イスラエルの自宅で、家族に看取られながら静かに息を引き取った。2013年にハーヴァードを退き、イスラエル帰国後も精力的に中国などでの調査を続けていたが、最後の2、3年は体を患い、療養を続けていた。82才だった。

 1992年の秋、私は一度も会ったことがないバーヨセフ教授の博士課程の学生となった。このような学生の採用は珍しいことと思う。実際私はバーヨセフ教授がどんな人かも、ハーヴァードがどんな所なのかもほとんど知らないまま、海を渡ったのだった。ポスドク(博士後研究員)も含め、2001年の夏までお世話になった。それはクリントン政権の下、アメリカがとても明るく発展を遂げた時代だった。その9年間は振り返るに、私の人生の頂点で、苦しかったことも含め夢のような時だった。

 先生は1979年からヘブル大学の正教授を務めた後、急逝したグリン・アイザックの後を継ぎ、1988年にハーヴァード大学に着任した。Stone Age Lab(石器時代研究室)の扉には、彼の名前が前任者のハラム・モヴィウス、グリン・アイザックと共に記され、扉を押して入室する度に歴史の重みを感じさせた。
 いつも優しい笑みをたたえた、ちょっとふっくらした小柄な先生で、「自由の国だから、何を研究してもいいよ。」と言われたのが、束縛だらけの日本から来た私には新鮮だった。名前はヘブル語ではオッフェル・バルヨセフだが、アメリカでは、英語読みで皆にオッファーと呼ばれ、慕われていた。私もここで彼をオッファーと呼ぶことにしよう。
 Stone Age Labには絶えず、オッファーのお弟子さんを含むイスラエルからのvisiting scholar(短期滞在の「客員教授・研究員」)やユダヤ系アメリカ人の研究者の訪問で溢れ、ユダヤ人の結束の強さを示していた。毎日、Stone Age Labの共有空間の丸テーブルで、先生と一緒にイスラエルから来た奥様のダニー(Daniella Bar-Yosef)、そしてvisiting scholarを含む研究室の構成員がお昼を食べに集まり、その間、研究室は笑い声で溢れていた。ダニーは貝が専門の考古学者で、研究室のあるピーボディー博物館に籍を置いていた。まだ学校に通っていた可愛らしい二人のお嬢さんも、よく研究室に現れた。私は日本で学生の頃、先生とは一般に怖いものだと思っていた。もし自分が先生になったら、学生から距離を置かれ、さぞ孤独だろうと思っていた。ところが、ここでは先生の周りに学生が集まってくるのが驚きだった。アメリカの先生は一般に気さくだが、皆が皆こうではない。昔の日本の先生には学生を威圧して従わせる人がよくいたが、オッファーは、決していばらず、人柄で多くの人を惹きつけた。彼の周囲に世界から集まる多彩でレベルの高い学者たちに触れ、私は世界の広さと一流とはどういうものかを知った。

 日本では何かにつけて黙しているのが美徳とされるが、オッファーは、お昼を食べながら、他の先生や学科の批判も歯に衣着せずに喋っていた。それで何か問題が起きたこともない。風通しの良いこと、率直に考えを述べることは良いことだと思った。
 アメリカの教授は、絶えず発言の社会的適切さに気を遣わなければならないが、オッファーは、いつも、ぶっちゃけたことを言って皆を笑わせた。講義中にも”Shit!”(クソッ!)など、不規則発言が口からこぼれ、問題になったことはなかったが、ティーチング・アシスタントの顔が一瞬こわばることが、度々あった。人の顔と名前についてはphotographic memory(写真のような記憶)の持ち主で、一度会っただけの人が、覚えてもらっていて感動すること、しばしばだった。
 家庭や私生活を大事にするアメリカでは、土日に先生や学生が仕事に来ることは、特に文系では珍しかったが、オッファーは週末も「やあ、Shoh!」と日本人のように仕事に来て、いつものように自分の部屋とStone Age Labの間をせわしく行き来していた。ただし、週末の夕方は、奥様に「殺される」と笑いながら、いつも早めに帰っていった。

 実際の調査を重視し、理論考古学は好まなかった。
「ダーウィンは、あのビーグル号の旅があったからこそ、『進化論』を書けたんだ!」
「マルクスは大英博物館の図書館で、当時知られていたあらゆる社会についての文献を読みあさったんだ!」
 狩猟採集民に関する理論、農耕の開始に関わる理論など、実際の問題に関わる理論には関心があり、その点は、個別事例の記載に留まりがちな、多くの日本の考古学者とは異なっていた。しかし、農耕の起源に関する仮説を論じつつも、「結局は、遺跡を調査して調べなければ分からないということだ」と、ばっさり切り捨てるところが、理屈で美しい結論の論文を書こうとする多くの欧米の研究者と異なり、日本人と相性が合う。
 多くの論文を出したが、1人で書いた著書は無い。本を書くタイプの人ではなかった。ハーヴァードの職を得るための面接に訪れた際に、「選考委員をしていたスティーブ・ウィリアムズ教授に、『バーヨセフ教授、あなたは業績リストに著書をお書きになるのを忘れましたね?』と言われたんだ、アハハ!」と全くかっこつけずに、学生に笑って話していた。
 洗練された言葉で理論整然と説明する人ではなく、直観の人、実践の人だった。彼の語る歴史は、素朴な言葉で人間と歴史の奥底を照射する、聖書の創世記の物語のようだ。アフリカを旅立った人類の祖先の複数の波、今日とは異なり、複数種の人類が住んでいた地上、温暖化と定住の始まりの直後に襲ったヤンガー・ドリアス期の寒冷化という一回的な出来事により、中東で苦労して土地を耕す者になった人間、それが人間社会を根本的に変え、point of no return(後戻りできない地点)を越えてしまったこと... それは決して直観的な思い付きによるものではなく、実際の研究と、人間と歴史に対する深い見識と鋭い洞察に支えられたものだった。流行りの理論に迎合せず、常に自分の頭で考える人だった。

 日本の考古学と同じように、石器を見て理解できる、遺跡を実際に掘った経験があることを重視した。人に対しても大変鋭い観察眼を持ち、学会でのわずかな訪問時間や研究者との接触においても、ヨーロッパを崇拝しアメリカを低く見ている、学会・シンポジウムをしても論文集の出版に熱心でない等々、日本の考古学の特徴を鋭く把握していた。ベルトコンベヤーを使った発掘を見て、あんな大規模な発掘は初めて見た、と子供のように素直な驚きを語り、日本の遺跡報告書を開いて、「こんな素晴らしい石器の図が描ける連中が世界にどれくらいいる?」と皆の前で賞賛してくれた。欧米の研究者が日本の実測図に関心を示すことなどほとんどなく、逆に描き方が違うというだけで、こきおろす人さえいる。そもそも自分たちのものとは違う考古学のしくみがあるということを説明されても、認識できない人が多い。オッファーが、世界的な学者でありながら、日本の考古学の特徴を即座に認識し、素直に評価してくれたのは驚くべきことである。反面、もし彼が日本語の文献を読めたなら、そこにしばしば見られる、論理性や先史学・関連分野に関する世界的な教養・常識の欠如、研究・学問というにはあまりに幼稚な議論に、椅子からひっくり返ったかもしれない。
 このように日本の考古学を高く評価してくれたオッファーを捏造前期旧石器で騙してしまったのは、痛恨の極みである。日本で相次ぐ驚異的な発見の報についての科学誌からの問い合わせに対し「Dr. Yamadaが見ているから大丈夫だ」と言っておいたよ、とニコニコして言ってくれた。それが全部捏造と分かっても、彼は私を全く責めなかった。スキャンダルの大きさの割には世界の石器研究者からの非難が少なかったのは、私がオッファーを騙してしまったので、皆がオッファーと私に気を遣い、何も言わなかったからである。

 純粋な反面、行動面では大変実利的で、共同プロジェクトや交流においては、自分の側にも得があることにこだわった。中東の市場での駆け引きを思わせる逞しさがあった。多くのシンポジウムに招待され、中には彼を呼ぶことで自分に箔を付けようとする人もいたが、彼自身、そうした招待を楽しんでいた。結果、多くのシンポジウムの論文集に彼の論文が収録されている。ある時、「ああ、この値段の高い論文集!参加すれば、みなタダでもらえるんだ」と言ったのを聞き、それが参加の動機か、と驚いたことがある。若い頃から、そうやって頑張ってきたのだろう。当人の知らないところで、オッファーを親友だと吹聴していた遠い国の先生もいたようだが、彼が真の友としたのは、学者として高いレベルにあると共に、人間的にも誠実な人だった。
 オッファーは、ハーヴァードの職に就く際、給与を高くするか、給与を押さえて研究費を多くするかの選択肢を示され、後者を選んだのだと言う。彼らしい選択で、おかげでStone Age Labでは毎年、次々と新しいコンピューターを購入でき、自分でコンピューターの買えない貧乏な私はその恩恵に大いに浴した。当時はMacのシステムを真似た “PC”のWindowsがまだ発展途上で、原則コマンドを覚えなければ動かせないIBM系の“PC”に対し、アイコンで誰もが簡単に操作できるMacのシステムの革新性を、オッファーは絶賛していた(当時ハーヴァードとマサチューセッツ総合病院がMacの牙城だった)。オッファーは既に50代後半だったが、次々と新しいMacのモデルを導入したのに加え、登場して間もないアドビ・イラストレーターやフォトショップを学生やアシスタントに覚えさせ、次々と仕事に取り入れていった。

 研究室に飾られた写真の、石器を割る若き日のオッファーは、頬がこけ、神経質そうな鋭い顔立ちで、「これがオッファー?」と見る人が皆驚いたものである。ヘブライ大学の院生時代にモシェ・ステケリス教授にフランスのフランソワ・ボルドの許へ送り出された。その頃フランスでは誰も英語を話さず、フランス語を覚えるしかなかったという。暖かく迎えられ、そこで得た友情の人脈が彼の後年の調査を支えることになった。その話から、最初、私は彼がフランスに1年以上いたのだろうと思っていたが、後にわずか半年と知り、驚嘆した。半年で言葉を覚え、ボルドの研究のエッセンスを掴み、研究人脈を築くなんて!
 続いて半年を過ごしたイギリスでは、かつての統治領パレスチナからやってきた、肌の色の暗い、訛った英語の青年は、よほど嫌な思いをさせられたらしく、そのことが幾度となく口をついて出た。私がハーヴァードを去る少し前のある日の夕方、オッファーが学内のパーティーから戻ってきて、そこで会ったどこかの学科の秘書たちに「あら、まだいらっしゃったんですか」と言われた、自分のような中東の人間を見ると、正教授ではなくて短期滞在のvisiting scholarかなんかと思うんだ、とニコニコしながらも、こぼした。世界のハーヴァードの正教授として60歳を超え、なおそうした扱いを受けることはいかに悔しかったことだろうか。

 発見の時代を生き、楽しんだ人だった。晩年、中国での調査に夢中になったのも、そこが青春時代のイスラエルのように発見の時代だったからである。彼が発掘した遺跡は下部旧石器時代から新石器時代以降まで、世界の先史学の重要遺跡がずらりと並び、圧巻である。このような研究者は他にいないだろう。約140万年前のウベイディヤ遺跡は長い間、アフリカの外の最古の人類遺跡だった。彼の名を世界的に有名にしたのは、現代人がネアンデルタールから進化したものではなく、中東の初期現代人の化石は、実はネアンデルタールよりも古いことを共同研究者たちと証明したことである。一方で、彼自身の最大の関心は農耕の始まりにあった。常に明確な問題意識を持ち、その解明のために集中的に最重要遺跡を発掘し(平凡な遺跡には手を付けない)、最先端の科学分析を次々と導入するのがスタイルだった。彼と組んだ関連分野の研究者は皆、一流の人ばかりだった。こうした彼の研究・調査のスタイルは、彼のイスラエルの弟子・孫弟子に顕著に受け継がれている。自分の学生は全員、プロフェッサーになった、と自慢していた。その記録に汚点をつけたのが私で、内心がっかりしていたことと思う。

 イスラエル建国以前の1937年、イギリス統治下のエルサレムに生まれた。父方の祖先は19世紀半ば、シオニズム運動以前にモロッコから宗教的な理由でオスマントルコ支配下の聖地エルサレムに移住した数少ないユダヤ人で、母方の家族は19世紀末にリトアニアから移住したユダヤ人だった。反英闘争、1948年の建国に伴う独立戦争に始まり四次にわたる中東戦争、パレスチナ人との紛争... 子供の時から、国の存亡のかかった戦争や騒乱に絶えず見舞われてきた。そんな中で、どうやって、あれほどの仕事を成し遂げられたのだろうか。逆に明日は分からないからこそ、生きているその瞬間、瞬間に全力で仕事に取り組んだのだろう。
 「歴史にはルーザー(敗者)がある」と彼は言った。絶対に敗者にはならない、そういう思いで生き抜いてきたのだろう。今のコロナ禍の下、オッファーが現役だったら、どうしただろうか。人一倍活動的な彼が、自由に活動できない耐え難い苦しみに直面したかもしれないが、同時に、皆がおろおろしている間に、あらゆる手立てを講じて、びっくりするような仕事をしたかもしれない。

 2020年3月16日、コロナ禍のために、限られた近親者のみに見守られ、オッファーはクファル・サバの墓地に埋葬された。人は塵から生まれ、塵に帰る、という聖書の記述(創世記3:19)にしたがい、文字通りの土葬で土に帰った。安らかに眠るオッファーは想像もつかない。あの世でも、せわしく地面を掘り続けている姿を思い浮かべたいが、ユダヤ教に天国や浄土はない。ユダヤ人として、その限られた「現在」を全力で生きたのである。

山田しょう Shoh Yamada Ph, D. (Anthropology), Harvard University

【経歴】
2009年10月~2018年5月 株式会社加速器分析研究所勤務
2002年10月~2003年9月 ヘブライ大学考古学研究所博士研究員・講師、アルブライト考古学研究所研究員
1992年9月~2001年8月 ハーヴァード大学人類学部(2000年6月 Ph, D.)
1989年4月~1992年6月 東北大学埋蔵文化財調査室 助手
1989年3月 東北大学史学科博士課程後期単位取得満期退学
仙台市生まれ

【出版物】
2021. 「アカデミック・マインド―研究捏造の心理学―」『旧石器考古学』85: 3-8.
2021. 「ウサギ・石器・イヌワシ?― 青森県尻労安部洞窟の語るもの一」『旧石器考古学』85: 65-84.
2020. 「石器使用痕分析の進展:観察媒体と光沢面の形成過程」『丘珠縄文遺跡年報』2: 18-32. 札幌市教育委員会
2020. Use-wear analysis of cortical and tabular scrapers and discs from the Chalcolithic sites of Bir es-Safadi and Abu Matar. Journal of the Israel Prehistoric Society 50: 192–208. (Michal Birkenfeld, Chantal Lili-Tafberと共著)
2019. Use-wear analysis of sickle blades. In Ilan, D. ed., DAN IV. The Iron Age I Settlement. The Avraham Biran Excavations (1966-1999): 489-506. Annual of the Nelson Glueck School of Biblical Archaeology, Hebrew Union College—Jewish Institute of Religion, Vol. XII
2018. 「使用痕研究の現状と旧石器時代における行動研究への応用」『旧石器研究』14: 1-16.
博士論文 2000. Development of the Neolithic: Use-wear Analysis of Major Tool Types in the Southern Levant. Dept. of Anthropology, Harvard University.